norimakiの出身地は横浜市戸塚区だったので、生まれてから就職で戸塚を離れるまでの24年間、一番身近な交通機関は神奈中バスだったのですが、その神奈中バスについて調べることが趣味になったのは1985年頃のことだと思います。その頃、自宅に「神奈川県広域道路地図」という本があって、これにはバス路線や停留所も記載されていたので、その中から神奈中バスのものだけを書き出して、自作の路線図を作っていたのを覚えています。
そして、神奈中バス趣味に大きな転機が訪れたのはその1年後の1986年4月でした。この時、方向幕に系統番号表示が導入されたのです。ある日を境に突然現れた番号になぜか興味を惹かれたnorimaki(当時小学6年生)は、放課後や休みの日に自転車を漕いでバスが発着する駅前に向かっては、この系統番号を調べる日々になりました。
今なら、そういう情報もインターネット上に多く公開されているので、部屋にいながらに調査することができますが、当時はネットも普及していませんでしたし、書店でも「バスルートマップ」の類も売られていませんでしたから、バスの系統番号を調べようと思えば現地に出向くよりない時代でした。
そうして現地で調べてきた系統番号は、専用のノートに駅別に整理してまとめていました。下図はその一部です。【戸64】の始発がおかしかったり、【藤12】の経由地である「大庭隧道」が読めずに「大にわ陸道」になっていたりと、間違いも多いですが、【戸04】南高経由県庁入口行、【戸17】名瀬行、【藤33】用田車庫行など、時代を感じる懐かしい系統もたくさんあります。
とはいえ、小学生の足で行ける範囲には限界があり、東は東戸塚、南は辻堂、西は長後、北は大和くらいまでしかたどり着けなかったので、しばらくするとその範囲の系統番号は調べ尽くしてしまう、ということになりました。この範囲外の系統については、家族で箱根や丹沢にドライブに行ったときに車内から見えたバスの方向幕をさっと書き写したり、当時テレビ放送されていた「そこが知りたい」の路線バスの旅で映った映像を見て書き写したり、そんなこともしていたのを思い出します。
当時は、平日の朝だけ運転される、といったレア系統も今より多くありましたので、そういう路線の系統番号を調べるのは大変でした。平日の休みはありまでんでしたので、小学校卒業後の春休みの平日、朝早起きしていちょう団地まで自転車を走らせ、【間18】いちょう団地~鶴間駅の幕を見に行ったりしたことを思い出します。
さらに、調査範囲を広げるため、県内の主要ターミナルまで電車で出向くことにしました。とはいえ、まだ一人で電車に乗って遠くまで行くことはできなかったので、親や妹と一緒に家族総出で、です。その第1回目は1986年10月19日、本厚木での調査でした。長後から、今はなき【長19】茅ヶ崎駅行で用田辻まで行き、そこから歩いて本厚木を目指しました。
本厚木周辺は、今でもバス路線がかなり多い地域ですが、1986年当時は今よりもずっと多くの系統がありました。本厚木まで行く途中の相模大橋を走る系統も、今は皆無になってしまっていますが、当時は長後、藤沢、茅ケ崎、相武台前、相武台下、上溝…と沢山の路線がありましたし、二俣川行きの相鉄バスの停留所があったのも衝撃的でした。
その後も津久井、平塚、秦野、伊勢原、町田、相模原…と各地を訪問して系統調査を進めていき、その度にノートの書き写す、という日々が続きました。
そして、1992年の春ごろだと思うのですが、「かながわのバスマップ」が一般向けにも販売されることになりました。 norimakiは当時戸塚駅前にあった神奈中のサービスセンターで購入したのですが、これにはバス路線と系統の一覧が詳細に出ていたので、もう自分の愛読書、といってもよいくらいに眺めていた記憶があります。あとは1993年頃に書泉グランデで買った「神奈中百科2」。この同人誌は系統番号の一覧がメインのもので、当時系統番号調査などしているのは自分の他にいないと思っていましたから、「自分と同じような趣味の人たちがいたんだ」と驚いたものでした。
その一方で、もう自分の足で調査する必要は無くなったと思ったのか、あるいは大学受験勉強やその後の大学のサークル活動が忙しくなったのか、理由はいろいろだったと思うのですが、バスマップ購入の頃を境に系統調査は下火になっていきました。思えば、何の情報もなく、ただひたすらに未知の駅まで自転車で行き、バス停の系統番号を書き写していたころが一番ワクワクで楽しかったのかも知れません。