この日、初めての米飯給食でした。献立表では8日になっていますが、欄外の注意書きの通りで深谷小学校は22日だったようです(深谷小は、他の学校と違い自分の学校でご飯を炊いているところが特長だと、在校時より聞かされていました)。
ご飯のお供はカレーです。norimaki的に好きだった給食のメニューベスト3は、「カレー」「揚げパン」「ソフト麺」だったのですが、読者のみなさんのところはどうだったでしょうか?あと、米飯以外に気になるのは29日のメニューにある「鯨肉」。この頃はまだ給食のメニューになっていたんですね。
画像はこの日の国語のノートです。題材は「くじらぐも」になっていますね。確か、クラスのみんながクジラの形をした雲に話しかけたらその雲に乗っかることができた、みたいな内容の話だったと思います。
国語の授業のネタついでに、授業で使われた題材でnorimakiが覚えているのを書き出してみたいと思います。「太郎こうろぎ」「ごんぎつね」「スイミー」「スーホの白い馬」「やまなし(クラムボンが何とか、みたいな内容の話)」「吊り橋渡れ」「かさこじぞう」まだいろいろあったかな。
当時のnorimakiは、土曜日の18時からは戦隊シリーズを見るというのが毎週の流れ。その中でも一番印象に残っているのが「太陽戦隊サンバルカン」。この日はその最終回でした。学校の休み時間も、クラスメイトのおさる君とかどかど君と3人で戦隊ヒーローの真似事をしていたように思います。その戦隊の名は、確か当時流行っていたお菓子の名前にあやかって「しましまクッキーマン」(何て名前だ!?)。
その前の時間のダイオージャも見ていましたね。♪最強ロボ・最強最強最強、の歌詞が印象に残っており、この冬のクリスマスプレゼントもダイオージャの超合金だったような。手がミサイルのように発射されるギミックがあったと思うのですが、飛んで行った手をすぐになくしてしまったような記憶です。
【おまけ】下の絵はnorimaki画伯6歳の時に描いたさんばるかんの絵です。
深谷町から中田町にあるうどん工場まで歩いて社会見学に行きました。距離はそこそこある(文中にも往復1.5時間かかったとある)のですが、当時の学校では、「体を鍛えましょう」みたいな風潮があったので、あえてバス等を使わなかった、ということのようです。
社会見学の内容は覚えていないのですが、前後の時期にうどんを作ったような記憶はあります。つなぎの量が少なかったのか、妙に粉っぽいうどんができてしまったような…
うどん工場に行った翌日、水ぼうそうに罹りました。病気で寝ているときにしていることといえば、テレ東のアニメ再放送と、教育テレビの番組を見ること。norimakiが印象に残っている教育テレビの番組はチョーさんが出てくる「たんけんぼくのまち」、テレ東のアニメでは「ドンチャック物語」のテーマソングかな。そのドンチャック物語の映像がyoutubeにありましたのでリンクを貼っておきます。みなさんの風邪で休んだ日に見ていたテレビって何でしたか?
神奈中の戸塚営業所に社会見学でした。地下鉄湘南台開業に合わせて、営業所が上飯田に移転しましたが、当時の戸塚営業所は立場、今ヨーカドーが建っているところにありました。
ところで、持ち物のところに50円玉というのがあるので、当時は小学校最寄りの二軒家から立場までの子供運賃がその値段だったのだと思います。ちなみに、同じ区間の現在の子供運賃は120円です。時代の流れを感じずにはいられませんね。
小学3年生の遠足はこどもの国でした。それにしても、なぜか全員体操服!?こどもの国では、フィールドゲーム(=ウォークラリーのようなもの)をしたような。
そういえば、遠足の時の持ち物に「エチケット袋」ってありませんでした?バスの中で車酔いしたときに使う用の、ビニール袋と紙袋を2重にして中身が漏れない&見えないようにしたやつです。norimakiは車酔いには強かったので、お世話になることはありませんでしたが(でも、そんなnorimakiでも「381系やくも」は酔いかけました。新型車両になって乗り心地良くなったのかな?っていう鉄オタトークです)。
この日はnorimaki小学5年生の遠足、画像はクラスの集合記念写真です。行先は相模湖ピクニックランド、今はプレジャーフォレストになっています。
遠足自体の記憶は全く残っていないので、当時持参したお菓子のことでも書いてみたいと思います。遠足の楽しみといえば、バスの車内で食べるお菓子もその一つだと思うのですが、norimaki家は親が生協の会員だったこともあり、お菓子を含めた日常の買い物は和泉町の生協で済ませることが多かったです。
その生協で売られていたもので、買っていた記憶があるのは「ジューシー 」「ハイレモン」「マーブルチョコ」でした。皆さんはどんなお菓子を買っていましたか?
norimaki家では、夏休みの宿題に「毎日日記を書く」というものがありましたので、この画像もそんな日記の内容です。まだ初日なので気合が入っているのか、1頁まるまる書いていますね。
norimakiの地域では、7月21日から31日まで、毎朝小学校に集まってのラジオ体操がありました。それが終わるとスタンプ帳に地区のスタンプ(norimakiは「東山」地区でした)を押してもらい、それをマクドナルドに持っていくとハンバーガーと景品がもらえる、という仕組みだったと思います。
当時のハンバーガーは今よりもかなり割高だったこともあり、小学生の頃はなかなかマックで食べる機会も無く、一年に一度の楽しみだったように思います。マックが手軽に食べられるようになったのは、norimakiが高校の頃だったか、バリューセットができてからだったかな。
この日、市内にある横浜スタジアムまでプロ野球観戦に行きました。おそらく、norimaki初めての野球観戦の日、だったと思います。この頃の大洋はまったく強くなく、この日もいいところなく負けていますが、最初に見に行った時のことで覚えているのは、外野フライの飛距離感覚がわからず、平凡なフライでもホームランに見えていちいち興奮していたことでしょうか。
当日の両チームスタメンを新聞縮刷版から拾ってみました。大洋は高木-加藤-屋舗のスーパーカートリオが健在です。ポンセもいたような気がしていたのですが、この時はまだいなかったみたい。レオンは覚えているけどホワイトは記憶にないなぁ。一方の中日のほうでは、中尾が毎年の珍プレー好プレーで、ユニホームを擦ったようなデッドボールを「当たった当たった」と審判にアピールするというのが恒例になっていたように思います。
あと、加藤博の応援歌が蒲田行進曲の替え歌だったのだけど、どうにも根暗な感じのメロディーで、うちの母は「♪負~けま~すよ エラーで~すよ ほ~らもう負けました~」などとディスって歌っていました(というか、本当に弱かった)。
【大洋】
1 遊 高木豊
2 左 加藤博
3 中 屋舗
4 三 レオン
5 右 ホワイト
6 二 山下
7 一 田代
8 捕 若菜
9 投 遠藤
【中日】
1 左 大島
2 中 平野
3 遊 宇野
4 一 谷沢
5 三 モッカ
6 右 川又
7 捕 中尾
8 二 上川
9 投 鈴木
文中に「また」と書いてある通り、当時、norimaki家で夏によく行っていたプールのひとつが鵠沼プールガーデンでした。そのプールの一番高いところにはカメのオブジェがありましたので、norimaki家では「カメさんプール」と呼んでいました(地元では「くげぷー」と呼ばれていたことを大学に入って藤沢在住の先輩から聞きました)。
この年の日記の1ページ目には、元日のおせち料理のメニューがつらつらと並んでいます。おせちの中でnorimakiが子供の頃に好きだったのは、圧倒的に伊達巻でした。いつも市販のものと母親自作のものの2種類が出てきていたように思います。
それから40年近くの時が流れ、大人(おじさん?)になったnorimakiの好物ベスト3は、かずのこ、ごまめ、昆布巻き。要するにお酒のおつまみになりそうなものばかり、ということです。norimakiの食生活の好みも変えてしまうとは、お酒の力は偉大だなと思います。
正月早々家族麻雀(父、母、私、妹)をしたことが書かれています。ちなみにこのときnorimakiは小学5年生、norimaki妹は小学2年生です。確か、この前のクリスマスプレゼントで麻雀牌をもらったので、熱中していたような。
文中の「トト」というのは父のことで、どうやら箱天になってしまったようです。この家族麻雀は、norimaki家の正月の恒例行事となっていました。norimakiが就職して実家を出た1999年以降も正月の帰省の度に欠かさずやっていて、2010年過ぎに妹が結婚して実家を出るまで長らく続いていくのでした。
norimakiが小学5、6年の時の担任の先生は少し変わっていて、休みの日に「お出かけ」と称して自分たちのクラスだけで社会見学や遠足に連れて行ってくれました。この日はその一環として、藤沢にあるいすゞの自動車工場へ。工場見学の後は湘南台公園で遊んで解散、みたいな流れだったと思います。
今だったら、「もし途中で事件や事故に巻き込まれたら誰が責任取るんだ?」みたいな議論になってできないことでしょうから、昭和の終わりころは、まだまだ大らかな時代だったのだな、と思います。norimakiが小学校を卒業してから40年近くになりますが、なんだかんだいって小学時代の一番印象に残っていることは、この「お出かけ」だったように思います。担任の佐藤先生はお元気にしていらっしゃるのかしら?
当時、一番仲の良かったテツオ君の家に行き、ファミコンソフトのマリオブラザーズをする、というのに熱中していました。テツオ君と2人プレイで何面まで行けるかにチャレンジして、この日はその最高記録となる81面まで行くことができたのです。
今の高画質でテクニカルなゲームと比較すると、画質はドット絵感丸出し、プレイ内容は単純作業の繰り返しにも等しいことを、よく81面まで続けたものだなと思うのですが、当時はこれをやるのが一番の楽しみでした。
小学5~6年生の時は、帰りの回の時に「きょう」というタイトルの日記を毎日書いて先生に提出していました。この文章はそんな「きょう」のものです(この先もちょくくちょく同じ書式の画像が出てきますが、それらも「きょう」からの転載になります)。この日から新学期で、教室も新しくなり、「きょう」の紙も新しくなり、「ざさん(学級通信の名前)」も新しくなったのに担任の先生だけは変わらなかったことを嘆いている(?)内容です。でも、後になってみると小学5~6年の2年間が、小学校生活で一番楽しかったなと思えるから不思議。
文中に出てくる「カッチンコ」ですが、確かボタンを押すと電撃ショックが味わえる、みたいなおもちゃだっと思います。個人的には感電の感触ってまったく好きになれない(スーパー銭湯の電気風呂とかもダメ)なので、こういうおもちゃは苦手だったのだけど、自分だけやらないと度胸が無い、みたいに思われそうで無理やりやった記憶があります。
運動音痴で有名なnorimakiですが、この日初めて跳び箱の閉脚跳びができたみたいです。といっても、小学校のときは跳び箱を横向きに置いていたので跳ぶというよりは跨ぎ越す、という感じでしたが。中学に入ると跳び箱を縦向きに置くようになったのですが、それ以降閉脚跳びができた記憶はありません。
1泊2日の日光修学旅行の1日目でした。上の画像はその行程表で、下の画像は戦場ヶ原での集合写真です。当時は心霊ブーム(毎年夏休みになると、「あなたの知らない世界」という特番もありましたね)でしたので、華厳の滝の記念写真に人の霊が写っているとか写っていないとかできゃあきゃあしていたのを思い出します。
修学旅行2日目。この画像の頁にはありませんが、別の頁には「こづかい(2000円以下)」と書いてあります。当時の修学旅行のお土産で人気だったのは「木刀」と「ペナント」。木刀は男子に大人気だったのですが、norimakiは「なんで日光で木刀?」と子供ながらに理解できない部分があったので買わずに、華厳の滝の写真が入った額縁なんかを買って帰りました。ペナントはこちらのサイトにあるように、やはり当時は人気アイテムだったのですが、今は廃れてしまいほとんど作られていない、ということ。時代の流れを感じますね。
画像は修学旅行のしおりなのですが、下の方に手書きで書かれているのはおそらく弁当に入れてほしいおかずのリクエスト、だと思います。
そして下の写真は休憩時間に撮ってもらったと思われるスナップ写真です。真ん中で大洋ホエールズの帽子をかぶっているのがnorimaki。この野球帽といい、2本線のジャージといい、昭和テイスト満点の恰好ですね。
学校から見たドリームランドが濃霧の中に霞んでいた、という内容ですが、そんなドリームランド観覧車の思い出話でも。ドリームの観覧車といえば、ゴンドラがフレームに固定されている普通のものと別に、レール上につり下がっている可動式のゴンドラ(揺れるゴンドラ、って書かれていたと思います)があり、観覧車が上昇してある一定の角度になるとゴンドラがレール上を滑ってゆらゆら揺れるようになっていました。
高さ的には揺れないゴンドラのほうが高いところまで行くので景色は良いのですが、ゆらゆらする感覚も好きだったnorimakiは揺れるゴンドラにも結構乗っていたような気がします。ドリームの入場料は安くなかったのでそれだけで行くことは少なかったけど、新聞屋が持ってきてくれるプールやスケートのタダ券に乗り物1個だけ乗れる特典もついていたので、それを使って乗ったな、という記憶です。
以上、本文の霧とはまったく関係のない話でした…
今回も、帰りの回の時間に描いていた「きょう」の内容のものになります。
その内容はというと、クラスの友人と結託して、教室のドアの上に黒板消しを挟むという古典的ないたずらをした、というもの。そして、クラスの女子二人が引っかかった、という内容です。黒板消しといえば、中にたまったチョークの粉を出すのに、教室の窓からパンパンはたくと煙みたいになって面白かった…という記憶もあります。
刺繍が好きだったかどうかはよく覚えていないのですが…norimakiは針穴に糸を通すのが苦手で、家庭科の授業の時はいつも隣の人に手伝ってやってもらっていました。でも、刺繍針は針穴が大きくて通しやすかったので、普通の縫物の授業の時にも刺繍針を使っていたのを思い出します。
この年の夏休みの日記は、ほぼファミコンプレイ日記になってしまっています。その中でも熱中していたのがスーパーマリオ(ちなみにこの日の時点ではまだnorimakiは8-4をクリアできていない模様)。
そして、クリアと同様熱中していた目標がノコノコを使った連続1up。3-1のラストの階段のところだったと思います。タイミングよくノコノコを踏みつけないと成功しないのですが、まだそのタイミングが習得できていないようで、テツオ君にやり方を教えてもらっている段階のようです。
冒頭の「スー」というのはnorimaki妹の愛称です。つまり、連続1upをnorimakiより先に妹が成功させた、ということが書かれています。
後半はその後のプレイ内容になっていますが、難易度の高い面としてnorimakiが印象に残っているのは2-3と7-3です。一見高台のステージを走るだけに見えるものの、下方からプクプクが高速で飛び出してくるのでこれに接触しないようにするのが至難の業だったかな。当時はほぼ運任せで進んでいたような気がします。日記にもその辺のことが書かれています。
あと、余白のイラストでマリオのズボンの股間部分が裂けているのはなぜ?自分でも覚えていないのですが、お気になさらないでください…
今日も今日とてスーパーマリオ、な一日。冒頭部分はやけに興奮していますが、どうやら初めて自力で8-4をクリアしたようです。 一日前の日記では2-3のプクプクの難易度高いと書いていましたが、この日の日記にある8-3のハンマーブロスも結構なトラウマポイントだったという記憶です(なんならクッパよりも手ごわかったような)。
norimakiが小学生の頃は、まだ学校週休2日でなかったので、午前中だけではありましたが土曜日も普通に授業がありました。週休2日になったのは、norimaki高校3年生2学期のときで、この時はまだ月イチ土曜休みでした(でも大学受験真っ只中だったので、休みだから遊ぼ―、みたいな雰囲気では全然なかったけど)。
2日前の日記では15mまであとちょっと、と書いていたのですが、この日はその壁をクリアできた、ということのようです。当時の小学6年生の実力として、18mというのは良いのか悪いのか良く分かりません(あまり良いほうだとは思わないけど25m泳ぎ切れない子も結構いた印象です)。norimakiが息継ぎをできるようになったのは中学に入ってからなので、無呼吸でなんとか頑張ったのが18mということなのだと思います。
運動音痴なnorimakiでしたが、まだ小学生の頃は、体育の授業は嫌いじゃなかったみたいです。中学高校の頃は嫌いになりましたが…運動会の練習と言えば、入場行進の練習とか結構やらされませんでしたか?なんか、グラウンドをひたすら歩かされるやつです。この練習意味あるのかなー、とか思いつつも、「はい、横の人と列を揃えて、手をしっかり振って」と言われながらやっていた記憶です。
家庭科室にゴキブリとは、今だったら問題になりそうですが、当時は学級日誌でネタにできるような内容だったみたいです。さて、その家庭科室で覚えているのは、教室の一角に使わなくなった足踏み式のミシンが置いてあったこと。norimakiが家庭科の授業で使ったのは電気ミシンでしたが、深谷小学校は1973年創立なので、そのころはまだ足踏みミシンを使っていたということだったのでしょう。
掃除の時間にペダルを踏んで、ミシンを回して遊んだりしていた記憶があります。
「あのような今日」というのは16日の日記のことだと思います。norimakiが発見してから4日しか経っていないので、この日記を受けてアースレッド散布が決まった、ということは無くただの偶然だったと思うのですが…
学級新聞の記事作りか何かのために先生の人気投票をアンケートしたら、担任の先生のランキングが4位→5位に下がった、ということのようです。
小学生時代のnorimakiの担任は、1・2年の時がオバちゃん先生、3・4年の時がおばあちゃん先生で、5・6年になって初めて若い女の先生に当たったのでラッキー、と思っていたら、文中にあるように「イヤミ」が多い先生でした。norimakiたちを受け持つ前が1・2年生の担任だったみたいで、よく「あなた方は1・2年生よりも幼稚でまるで幼稚園児」みたいに言われていたような気がします。
小学生時代のnorimakiは運動全般苦手だったのですが、鉄棒は人並みにできたような気がするのです。この日はそんな鉄棒で足かけ前回りができるようになった、とのことでした。鉄棒といえば、大人になってから(数年前)、たまたま行った公園で逆上がりができるかチャレンジしたけど、腹のぜい肉が鉄棒に絡まってとても痛かったです。かろうじて一回できましたが、今はさらにメタボ化が進行しているので、もう無理かも知れません。
家庭科の授業で調理実習があったようです。日記の「し川玉子」というのが謎ですが、実習計画書(COOKING NOTE)によると粉噴きいものことみたい(どういう間違えだ!?)。
この実習で覚えているのは、当時のnorimakiは「ジャガイモが茹で上がる=お湯が沸騰する」と勘違いして、お湯が沸いたのでジャガイモを引き上げてみたけど、(当たり前ですが)硬くて食べられなかった、ということです。読者の皆さんの調理実習の思い出や失敗って何かありましたか?
10月30日の日記に「のこるは後回り」と書いていた課題が期限の一日前にできた、ということのようです。吉川君というのはクラスメイトなのだけど、ズボンのおかげ、っていうのはどういうことなのだろう。まさか他人のズボンを履いてやった、ということではないと思うのですが…鉄棒との接触部分にズボンを巻いて滑りを良くした、ということなのでしょうか(覚えていません)。
文中に出てくる「寛」「中チョン」「鉄ちゃん」というのはnorimakiのクラスメートの名前です。要は、この日はクラスの友人宅に行ってファミコンをした、ということです。当時の小学生の放課後の日常は「部屋でテレビを囲むように座り、順番にファミコンをする」。だいたいどこでもこんな感じだったのではないか、と思います。
寛君の家に行くと、たいてい母殿がおいしいお菓子を作ってくれていたので、それも楽しみだったような気がします。日記の後半にある「やったもの」というソフトの名前も懐かしいものが並んでいますね。「ヒンフボール」というよく分からないものがありますが、おそらく「ルナーボール」の間違いだと思います。
あと、本文にある頭脳戦艦ガルの「あくび」というのは、以下のプレイ動画で3分02秒くらいに出てくる、口の部分から球が発射される顔の形をした施設、のことだったと思います。
放課後、クラスメイトの家の前で縄跳びの練習をすることになったという内容です(「なわとびオリンピック」というのは縄跳びの技を競う学校行事だったと思います)。
縄跳びの練習もさることながら、文中に出てくる北岡君の家には、当時珍しかった(かな?)パソコンがあって、パソコンゲームで遊んだ記憶があります。中でも印象に残っているのが「軽井沢誘拐案内」というタイトルの推理ゲーム。この頃はスーパーマリオみたいなアクションゲームしかしたことが無かったので、推理をするというのが斬新だったように思います。確か、「地蔵が原」とかいう地名が出てきたあたりで行き詰って先に進めなくなりましたね。このゲームといえば、途中で登場人物のコメントで「まさか、●●が売春を!?」みたいなものがあったのですが、当時のnorimakiは売春の意味を分かっておらず、「なに?ばいしゅんって楽しいことなの?」みたいにきょとんとしていました。